地方出身東大生じるふぇの日記帳

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普遍道徳文法という仮説があるらしい【勉強日記】

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※2022年10月9日及び10日

雑記

どうも、じるふぇです。昨日は更新をサボってしまいました。


その間に『自然主義入門』を読み進めていました。この本の前半では主に「道徳」について様々な見解を説明しています。

自然主義というのは、哲学と科学の境界線をなくして「心」や「精神」などの今まで哲学的に取り扱われていた概念を自然現象の一部として捉え直そうとする試みです。

自然主義によるこのような「自然化」の対象として、道徳というものを筆者は最初に取り上げています。この時、論者によって意見が分かれるのが、道徳は果たして生得的なのか、それとも経験的に構築されるものなのかという問題です。


ここまでは、そんなに珍しい話でもないように思えますが、個人的には、その中でも道徳の生得説がチョムスキーの「普遍文法」という仮説のアナロジーによって理論化され得るというのが興味深く感じました。

一時期私は言語学に興味を持っていたことがあったので、チョムスキーの名前も耳にしていましたが、その具体的な理論については正直あまり理解していませんでした(というか、私の言語学への関心は本当に儚いものだった)。

それが今回、普遍文法についてその概要だけでも知ることができ、さらにはそれが道徳に関する議論にまで応用されるという知見を得たのはとても良かったです。


普遍文法というのは、我々人間は共通の文法の原型を持って生まれてきており(これを普遍文法という)、それが幼少期の言語刺激を受けて英語や日本語などの個別の言語へと固まっていくという理論です(だいぶ大雑把な説明ですが)。

例えるならば、普遍文法というのはパラメーターが未入力の初期状態のようなもので、生後の言語経験とともに一つ一つのパラメーターが確定していき、最終的に英語や日本語といった個別の言語に定まるというイメージです。

このようなことが言えるのは、人間が扱う種々の言語に根本的なところで共通点が見られるということがあります(述語と目的語の語順は言語によって異なるが、述語、目的語というカテゴリーが存在するのは同じ、など)。

そのことの例えとして、本書では、もし全く別の惑星からきた宇宙人が地球人の言語を観察したら、いくつかの方言は見られるが、全体としては地球人は同じ言語を話していると結論づけるであろう、という話を持ち出しています。

正直、私のような一介の学習者からすると、日本語や英語、フランス語といった各言語の違いは全く無視できるものではないわけですが、高名な言語学者からすればこの程度どうってことはないということでしょうか。


そしてこの普遍文法という概念を道徳にも当てはめて考える一派があり、この時、その生得的な道徳の原型のようなものを本書では「普遍道徳文法」と呼んでいます。

というような感じで、元々、言語は生得的であるか、経験的であるかという問題に解答を与えるために編み出された普遍文法という仮説がそのまま道徳についての問題にまで適用されるわけですが、一方で言語と道徳では大きな違いがあるのもまた事実です。

その一つとして、道徳には感情が伴うというのがあるでしょう。もちろん、言語にも感情が篭ることはありますが、言語活動の全てにおいて感情が含まれているわけではないですし、言語というものを人間の感情とは独立のものとして考察することは十分可能なように思われます。

しかし、道徳の場合にはなかなかそういう風には行かないのではないでしょうか。例えば、道徳的に悪い光景を見たら、私たちは嫌悪感や怒りを覚えますし、逆に道徳的に良い行動を見かけたら、尊敬や称賛の感情(そのような良い感情ばかりではないかもしれないが)を抱くわけです。

むしろそのような感情の方が道徳判断においては本質的なようにさえ思える気もしてきます。

果たしてこれらの感情と道徳を切り離して考えて良いのだろうか。いや、道徳と感情は原理的に不可分なのだ、という考え方が当然存在します。

ということで、私がこれから読んでいく章はこの道徳と感情の結びつきを重視する立場についての説明です。とても楽しみですね。

以上、ここらへんで今回は終わりです。